馬場久志埼玉大学教授を招いて2025年12月5日に開催した高校教育研究委員会による2025年度第2回公開研究会の内容をご紹介します。
不登校の子どもにとって「高校に行くこと」とは―小中学校と高校が一緒に考えたいこと―
不登校の子どもが増え続けています。文部科学省の調査でも、その数は毎年最多を更新しています。不登校は一部の子どもだけの問題ではありません。現在学校に通っている子どもも含めて、どの子にも起こりうるりうる問題です。
その中で、私たち大人があらためて考えてみたいのは、「不登校の子どもにとって高校に行くこととは、何か」という問いです。高校への進学は希望になることもありますが、子どもを追い詰める原因になることもあります。ここは小中学校と高校の関係者の両面からの支えが大事になります。
不登校の子どもにとって「高校」は一大事
不登校児童生徒の割合は、小学生から中学生にわたって高くなっていきます。しかし、中学3年生から高校1年生にかけて、その割合は大きく下がります。この数字だけを見ると、「高校に行けば不登校は減る」「進学が解決策だ」と受け取られがちです。
しかし、その裏には、子どもたちの切実な思いがあります。不登校の子どもにとって高校進学は、単なる次の学校ではありません。「自分はこの先、生きていけるのだろうか」「社会に自分の居場所はあるのだろうか」といった、人生に関わる問いと直結しています。
「高校には行きたい…」「このままだと高校にも行けない…」「高校なら行けるかも…」。こういうさまざまの思いが、子どもたちの頭の中を巡ります。進学を決めて通い始めても再び行けなくなることもありますし、その中にはさらに挫折感をもってしまう子もいます。あるいは休養を経た後に意を決して高校に行くことを自分で決め、通い始める子もいます。もちろん、高校進学を選ばない子どももいます。一律に考えてはなりませんが、多くの子どもにとって一大事であるのが、高校進学と自分のこれからというテーマです。
中学3年から高校1年への数値が下がって見える背後に、子どもたちの期待と希望も、悩みも苦しさつらさも、また緊張感も抱えながらのゆれる思いがあふれていることを、私たち大人は視野に入れながら、不登校の子どもたちにとっての高校進学をとらえる必要があります。
社会に翻弄される子どもたち
不登校児童生徒が増えている背景には、子ども個人の性格や家庭環境では説明できない、学校を取り巻く社会環境があります。全国学力テストに代表される得点競争、過重な教育課程と授業時数など。そこで子どもたちは常に評価される環境に置かれてきました。
さらに、新型コロナウイルスの流行は、子どもたちの日常を大きく揺さぶりました。突然の休校、人と会えない生活、行事の中止、先の見えない不安。こうした経験は、子どもたちの心に影響を残していると思われます。
加えて、自然災害や社会不安、経済的な格差の広がりなど、子ども自身にはどうすることもできない出来事があります。大人社会のひずみは、子どもたちに反映します。
子どもたちの息苦しさは、暴力行為、非行、自傷行為などの形で現れています。これらを「問題行動」として見るよりも、助けを求めるサインとして受け止める必要があります。不登校も、学校のあり方に子どもが苦しんでいるという見方が必要です。子どもたちの姿に照らして、社会のひずみが見えてきます。
不登校は学習以前に「命」の問題
不登校の子どもは、「学校に行けない自分はだめな人間だ」「みんなはできているのに、自分だけできない」と自分を責めます。子ども本人にとっては、生きる意味そのものがゆらいでいます。
「自分なんていなくてもいい」「消えてしまいたい」。実際に、こうした言葉が子どもたちの口から発せられることがあります。不登校は、学習や進路の問題である前に、命と尊厳に関わる問題です。
保護者もまた、深い苦しみを抱えています。学校への対応、進路の不安、仕事との両立、親戚や近所の目、夫婦間の認識。相談できる相手が見つからず、孤立してしまう保護者も少なくありません。
「育て方が悪かったのではないか」「もっと厳しくすればよかったのではないか」と、自分を責め続ける保護者も多くいます。必死に原因を探します。しかし、原因探しに固執することは、かえって子どもを追い詰めてしまいます。
不登校への社会的理解はまだ途上に
近年、「不登校は誰にでも起こりうる」「学校に戻せば解決ということではない」という考え方は、少しずつ社会に広がってきました。
一方で、「学習の遅れ」や「将来の不利益」が強調される場面も多く、「休んでいいよ」と言われながらも、「でも勉強はどうするのか」「進学は大丈夫なのか」と問われる状況があります。これは休養を必要とする子どもにも保護者にも大きな負担です。
安心して休むことが認められていないままでの回復は困難です。
COCOLOプランの課題
「全ての児童生徒が活き活きと学び、教職員が児童生徒の成長を実感できる魅力ある学校づくり」を目指すべきとした調査研究協力者会議を受けて、文科省はCOCOLOプランを策定し実施しています。ようやく、学校を何とかせねばというところに来ました。
小中学校を中心に動き始めましたが、高校については施策が十分とは言えません。オンライン学習やカウンセリング、支援シートなどの整備が示されても、それらが個々の生徒につながり、受け入れられるものでなければなりません。
不登校生徒数と精神疾患で休職する教員数には強い相関関係があります。教員が疲弊している学校の状況で、子ども一人ひとりに丁寧に向き合う余裕はありません。教員を増やし働き方を見直さなければ、プランはあっても学校は変われません。
懸念される三つの点
一つ目は、「学習」への偏重です。心と体を休めることが必要な子どもに対して、「どこで学ぶか」「どの方法で学ぶか」を急いで決めさせることは、命の軽視です。学習権の保障自体は重要ですが、生存権の保障を土台にしなければ本末転倒です。
二つ目は、校内教育支援センターの今後のあり方です。教室に居づらい子どもが安心して過ごせる場所であるはずが、教室がだめなら行くべき学習場所となってしまうと、本来のねらいからはずれ、不登校にさせない引きとめ策になってしまいます。
三つ目は、個別に最適化された学習や教育DXの名のもとで進む教育の市場化です。不登校の子どもが、新たなビジネスの対象として扱われることに、注意が必要です。
高校と小中学校の協働を
不登校の子どもには、二つの異なるタイミングがあります。一つは、年齢によっておとずれる高校進学のタイミングです。もう一つは、子ども自身が「行ってみよう」「やってみよう」と思える自己決定のタイミングです。
この二つは簡単に一致するものではなく、そのずれをどう支えるのかが、私たち大人に問われています。
小中学校で築いてきた安心できる関係や居場所を、高校へどうつないでいくのか。高校は、「新しいスタート」を一方的に求める場所ではなく、「これまでの歩みを引き受ける場所」であることが求められています。
成果のものさしを変える必要
余談ですが、不登校支援の成果を「登校日数」や「進学率」といった数字だけで測ることには限界があります。大切なのは、子どもが「自分のことをわかってもらえた」「自分は大切にされている」と感じられたかどうかです。
その実感があってこそ、子どもは次の一歩を考えることができます。
おわりに
不登校支援の目的は、ただ子どもを学校に戻すことではありません。子どもが人として尊重され、「生きていていい」と思えることです。
小中学校と高校、家庭と地域、そして社会全体がつながり、子どもと教職員の双方が安心できる環境をつくることが、今、強く求められています。
【討論まとめ】
最後に
種々の討論を経て、不登校だけではないが、所属先の学校や組織があってもそこでどう人としてつながり合っているかが大事であるという示唆を得た。