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教科書検定意見撤回を!9・30学習交流集会【講演】

【講演】  山口 剛史(琉球大学教育学部 准教授) 
 
 みなさん、おはようございます。ご紹介いただきました山口です。
 ここまでの運動の到達と今後の運動の課題を紹介させていただくことと、問題のいわゆる政治的な背景を含めた部分をかいつまんでご紹介し、その後の各県交流でその中で疑問等も出していただければと思います。

一致点を一つにやったことで大きな県民運動に 
 
 3月30日にこの問題が正式に発覚して、「よくここまできたな」というのが実感です。保守派を動かす草の根の運動をきちっと積み上げてこれたことが大きな確信になっています。その中で、教職員組合の果たしてきた役割は非常に大きかったと理解しています。
 この運動で一番大事だったことは、一致点を限定したことです。とにかく「教科書に歴史の真実を」という、一致点でとりくみをつくったということが、一番の教訓だと思っています。
 今回の教科書検定が、歴史の歪曲なんだということをきちっと解明をして、説明をしていくことに、最初の1~2カ月かかったと思います。そういうことを教科書の分析も含めて地道にあちこちで、県議、市議も含めて丁寧にやりました。とにかく「検定撤回を目標に意見書を出してほしい」――そこは絶対にブラしてはいけない。すべての市町村議会の事務局そして、紹介議員になれる人たちに、私たちでモデルの意見書をつくって、「これで意見書をあげてほしい」という要請を事細かにやっていったんですね。そうした地道な作業が後で、とっても大きく功を奏していった。実際に、渡嘉敷、座間味まで行って、「是非あげてほしい」と、そういうことをやってきたことが、5月14日を皮切りに、6月22日の県議会決議にまで――約1~2カ月近い時間をかけて、すべての議会であげるということにつながりました。
 
 しかし正直言って、こんなに集まるとは思いませんでした。大会の2週間くらい前からですかね、毎日、『沖縄タイムス』『琉球新報』には「実行委員会ができた」とか、「呼びかけしている」だとかの報道がずっと流れていましたけれども、一切足元の盛り上がりを実感できる状況ではありませんでした。ですから、「これはバブル報道だ」というくらい、僕らは危機感を持っていました。
 昨日は12時頃、私は会場に行ったんですけれども、12時くらいから場所取りがはじまって、人がわさわさし始めて、まわりの食堂も一杯になって、13時になると人がぞろぞろ入ってくるというような状況でした。「これはもしかしたら成功するかもしれない」「3時間前からこれだけ人がいるということは、大きな成功をするかもしれない」という期待をしながらおりました。案の定、大成功でした。
 終わった頃に着く人はまだ良い方で、終わっても着かない人がたくさんいるという状況でした。何しろバスセンターから、満員で出発したため、どの停留所でもとまれない、そのため乗れない、そういう人がたくさんでた。「本当に大きな大会になってよかったな」と、終わった後いろんな人と握手をしながら、この半年間を振り返ったところでした。
 
 私がいま一番言っていることは、一つは、一致点を一つにやったことが大きな県民運動になったということ。もう一つは、これが沖縄の要求、いわゆる体験をゆがめる問題ではありますけれども、同時に日本全国の歴史認識、歴史事実の問題なんだということです。この観点が大きな全国の連帯を広げることになったんだと思う。これはやっぱり日本全体の教科書の話ですから日本の問題だと、日本の歴史をどう総括するのか、語るのかということの問題である。ということで大きな全国連帯が広がったということが、教訓だろうと話しています。全国の方と話をする時にも、「みなさんと一緒に結び合えてがんばれていることが非常にうれしいんだ」と言っています。今日もそういう趣旨で話しています。
 昨日も、国立の意見書決議をあげた人が市長のメッセージを持って来るとか、練馬で一生懸命陳情をやっている人が来て署名活動していたりしました。おもしろいことに、いま練馬では公明の人たちが渋っているんですが、そうすると会場に来た創価学会の人に署名を取りに行くと、「私たちから言うから練馬の公明党に言うよ」というような話になったりする。そのように、全国でこの問題を自分たちの問題としてとりくんでいる人たちがたくさんいる。国立でも朝から駅前で街頭宣伝をやって、午前中500枚のビラがあっという間に撒けて、夕方から増し刷りしてまた撒いて、結局900枚も撒ききったと言っていました。沖縄に来ている代表の人が、電話で状況を中継して、それをまた街頭宣伝するという、そういう共同行動が広がっているのを真横で見ながら、大会に参加していました。いま各地で意見書決議があがっていますよね。そういうことも大きな力にしたいと思っているところです。
 
いま教科書でどこまで沖縄戦が書かれているのか 
 
 先に教科書の話だけ、しておきたいと思います。いま、全国の教科書でどこまで沖縄戦が書かれているのか。
 教育出版の『小学校社会科6年上』(全国的にもよく使われているもので沖縄でもシェアの高い教科書)。
 「1945年(昭和20)年4月、沖縄島に焼く20万人のアメリカ軍が上陸し、住民をまきこんだ激しい戦闘となりました。今の中学生・高校生くらいの男子生徒は、日本軍とともに戦い、女子生徒は負傷兵の看護などにあたりました。日本でゆいいつのこの地上戦で、県民60万人のうち、12万人以上の人々がなくなりました」
 これだけなんですね。続いて中学校も見てみましょう。
 東京書籍の『中学校社会科歴史』(親方日の丸で有名な東京書籍です)。
 「1945年3月、アメリカ軍は沖縄に上陸し、激しい戦闘が行われました。沖縄の人々は、子どもや学生を含めて、多くの犠牲者を出しました。沖縄戦のあと、アメリカ軍は、九州に上陸する用意を進めました」とあって、隣にアメリカ軍の戦車の写真があって、犠牲者の数が載っている。これだけなわけです。
 
 最後に高校の教科書。
 山川出版の『高校日本史B』(これが今回の検定の前の年に自主規制で減らしていた教科書です。ですから今回の検定の問題の1年前に、それを示唆するような自主規制があったということを確認していただくことと同時に、これがいまの沖縄や全国で4割近く使われている教科書だということです)。
「沖縄本島に上陸したアメリカ軍は、付近の2つの飛行場を制圧し、島を南北に分断した。この間、日本軍は特攻機を投入した航空総攻撃をおこなったが、アメリカ艦隊を沖縄海域から撃退することはできなかった。沖縄を守備していた日本軍は、アメリカ軍を内陸に引き込んで反撃する持久戦態勢をとったため、住民をまき込んでの激しい地上戦となり、敗残兵や避難民にしだいに島の南部に追い詰められていった。6月23日、組織的な戦闘は終了した。日本軍の戦死者は6万5000人に達し、一般県民も10万人以上が戦没した。沖縄県は1995年、沖縄戦で亡くなった全戦没者(アメリカ側も含む)の名を刻印した『平和の礎』を建設した」
 
というようにあります。
 
教訓を学ばなければ沖縄戦を学んだことにならない 
 
 いずれも見ていただくとわかりますように、沖縄県民・住民がどのように戦争に巻き込まれ、死んで行かざるを得なかったのか。住民虐殺やいわゆる「集団自決」も含めた住民が死に至らしめられる、と言いますか、どのように死に向かわせられたのか、ということは一切かかれていない教科書になっているわけです。
 ですから、素直に教科書どおりの授業を6・3・3の12年間やられた場合に、どういう沖縄戦認識ができあがるのかを考えた時に、私たちは非常に不十分だろうと思っています。
 何が欠けているのかと言うと、先ほども言いましたけれど「住民がいかにして死んだか」。もっと言いますと沖縄戦で一番学ばなければいけないことは、「軍隊は住民を守らなかった」という教訓が戦争を通じてわかったことだと思うんです。さまざまなアジアの国々を侵略し、人権侵害どころか、多くの生命、財産を奪ってきた日本軍という組織は、最終的には自国民に対しても銃を向け、その命を奪っていく。それが軍隊という組織の構造的な暴力装置としての特筆であると、それはなんのためにそうなったかというと、軍隊というものは、そもそも住民の命や財産を守るために組織ではなく、天皇、当時でいう天皇制を守る、国家体制を守るためだけの組織である。そういうことを私たちはこの戦争から学んだはずです。だからこそ、戦後の憲法は、戦力の不保持と平和主義をとったわけですよね。
 そうした教訓が、垣間見えさえしない教科書になるということは、沖縄戦を学んだことにならないわけです。沖縄戦で「いつ、どこで米軍が上陸したか」といったことは、もちろん事実確認としては大事ですけれども、本当に学ぶべき教訓というものは、いまの小・中・高の教科書にふれられていない、ということを私たちは危機感を持って、教育の問題として考える必要がある。
 それは沖縄戦のことだけではなくて、アジア・太平洋戦争をどのように私たちは総括し、語るのか、教えるのか。そういった時に、やはりその観点というものが、どのように連なるのかということです。だからこそ、昨日大会で発言した高校生が、「加害の実相を正面から、どんなに悲惨で厳しい現実であっても、それを見なければならない。そこからしか始まらないんだ」と言ったことは、やはりそういうことなんだろうと思います。
 
沖縄戦の実相で抑えておきたいこと 
 
 ひとつだけ、沖縄戦の実相で抑えておきたいポイントだけ、みなさんに話したいと思います。『沖縄タイムス』が、『いま軍命を問う』というシンポをやった時の金城重明さんのお話があります。僕自身はこれを使いながら最近は話しているのですが、ちょっと読んでみたいと思います。
 「このとき、軍と最後を遂げるという脅迫感があった。住民には軍とともに命運を共にするという『軍官民共生共死』と、天皇のために命を捨てることは尊いことだという皇民化思想があった。決して自発的に死のうという意識はなかった」とあります。もうひとつ、「住民の生命を含め、島は一木一葉に至るまで日本軍の支配下にあった。軍にとって住民を死に追い込むのはいとも簡単なことだった。沖縄戦において軍は最高の権力を握り、住民をしに追い込んだことがまず重大な問題だ」と、このように書いてあります。
 当時の沖縄戦の状況を考えますと、基本的に1944年の3月に第32軍という軍隊が沖縄にやってきます。これが「沖縄守備軍」と称して北は奄美から、南は波照間、与那国まで管轄する部隊。当初は、飛行場をたくさんつくって、航空作戦による敵の撃滅を図ろうとしました。そのためにたくさんの飛行場をつくりました。その名残が那覇空港であり、嘉手納基地であり、読谷補助飛行場であり、ここの直ぐ近くのキャンプ・キンザー(牧港にある海兵隊補給基地)であり、石垣や宮古の飛行場であるわけです。伊江島もそうですね。
 その作戦が第9師団という部隊の台湾への移動による戦力の弱体化等あり、作戦の変更があって各山、丘陵すべてに陣地をつくっていく。それこに多くの住民を動員するということになるわけです。その時につくられた方針は、まさにここにある「軍官民共生共死」なんですね。第32軍は牛島満という司令官です。彼はこの軍を動かしていく上で、いろいろな方針を訓示として述べているわけですけれども、その中で一つは「一木一草と言えと言えども戦力化すべし」と、このように言っているわけです。まさに、島の財産をすべて使ってでも、この島を基地にする。これを沖縄戦研究では「全島要塞化」と呼んでいます。
 それだけ各地にたくさんの陣地がつくられる。中には、沖縄のお墓をくり貫いてまで砲台をつくっていく、陣地をつくっていく。そういう跡がいまも残っています。そういうことをしてまで日本軍は戦争の準備をしたわけです。そこに住民をすべて動員する。それは単純に勤労動員的なものではなく、防衛隊という臨時防衛召集規則にもとづく、いわゆる軍人、兵隊を臨時に集めていく、また学徒を動員する。そういうことで、すべて戦力化していくわけです。これを通常「根こそぎ動員」という言葉を使うわけです。まさに足腰立つものはすべて軍に動員していくわけです。このような体制の中で沖縄戦というものが始まっていく。
 その時に、沖縄県のピラミッドの頂点にいるのが、当然32軍の司令官であり、軍隊なんです。この軍隊が、どのように住民を動かすかというと、住民に直接軍隊が命令するということはあり得ないわけです。それは当然、間にある「官」というものを使って動かしていく。それが小さな島であればあるほど、よりダイレクトにかかわってくるわけです。ですから、渡嘉敷島、座間味島の場合、そういう意味では村長、それから一番大きな役割を果たしたと言われている「兵事主任」という、いわゆる兵事係。徴兵制を司る人たちですね。赤紙を配ったり、徴兵事務をするこの「兵事主任」が一番大きなポイントを持っていたわけです。通常「兵事主任」の仕事は、軍隊からあがってきた人がやりますから、十分軍隊にも精通をしている。彼らが軍の指示を得て、「何人出してくれ」とか、「青年団集まって何しろ」だとか、そういうことをやる。もちろん青年団も大きな役割を果たしている。
 そして、在郷軍人会、一旦兵役を終えて戻ってきた人がいますよね。そして、いわゆる国防婦人会、大日本婦人会というような婦人組織。こういうものをつくって、まさに天皇制支配というものを隅々にまでいきわたらせる。これが当時の特徴なわけです。
ですから、その支配構造をきちっと抑えておかないと、さもですね、「住民が具体的にどこに逃げるか」とか、「生き死にを選べるようなことがあった」かのようにみなさん認識されるわけですけれども、一切そういうことはない。そこまで含めてきちっと管理をされている。
 特に渡嘉敷、座間味というところは海上挺身隊、特攻艇の基地でしたので非常に秘密、防諜の管理も厳しかった。ですから、座間味では梅澤部隊の腕章を縫い付けてなければ(印鑑を押した布を配っているんですね)――「スパイだ!」と。ここまで住民管理を徹底するわけです。そういう状況に戦時体制そのものがあったわけです。軍隊というものがそういう中で「戦陣訓」を教え、「大詔奉戴日」(いわゆる真珠湾攻撃の日)での儀式にさまざまな訓示をしたりする。そういう中で「いかに行動すべきか」ということをずっと刷り込んできた。それが昨日の県民大会で吉川さんたちの証言とか、宮川ハル子さんたちが話したような具体的な状況につながっていく話なわけです。
 ですから、そういう点では手榴弾を配ることを含めて、すべて軍の命令であり、軍の許可(その時の島を実権的に掌握しているのは、渡嘉敷でいえば赤松(当時:渡嘉敷島戦隊長・大尉)、座間味でいえば梅澤(当時:座間味島戦隊長・少佐)ですから、彼らの指導方針、許可、命令なしに、何も動かせない。これが支配構造の基本的システムですね。上官の命令を聞かずに勝手なことをしたら、軍隊組織というものは戦争できないわけです。「すべて死ね」と言えば「死ぬ」ように非人道的に仕込んでいくのが軍隊組織ですから、そこまでされている組織が自由に「手榴弾を渡してあげた」とかですね、そんなことは、絶対に起こりえないわけです。
 そういうことを今回、軍の「隊長命令の有無がわからなくなった」とか、裁判を理由に教科書を変えたということは、そもそもが間違っているわけです。「すべて軍命なんだ」「こういう支配構造で理解をしなければならないんだ」ということを飛ばして、「あの夜に『自決』の直前に隊長が、口で住民に対して命令をしたか」という一点に彼らは絞っているわけです。
 「隊長命令あったか?」⇒「誰も聞いていないじゃないか」⇒「あるわけないじゃないか」という話をする。これが矮小化された彼らの特異な論理展開なんです。「従軍慰安婦」の時もそうです。各中国戦線や東南アジアにおいて、沖縄でもそうですが、慰安所をつくって性奴隷にする。そういうことをさせたということは否定できないわけです。でも、「いや朝鮮半島で、いきいなり日本の軍隊がやってきて、髪の毛をつかんで慰安所へ連れて行った、そんな人がいるか?」という話をするわけです。これはいわゆる「従軍慰安婦」の軍による強制連行。これがなかったから「なかった」とする。
 このように極めて矮小化し、事実関係として明白な証言がないと思われることを取り出してきて、全体を否定する。ですから、私たちは裁判でもそうですけど、この土俵に乗ってはいけない。この論争に乗って「イエス」「ノー」を議論することは問題じゃないんだということがとっても大事になっている。裁判の中でも、非常に重要な論点になっているところです。ですから、あの時におかれた沖縄県民の状況とかを上手に、私たちは具体的に把握をしながら、語る必要があるんだろうなと思います。そういう時に、今回は「軍の関与」という言い方で県議会決議はなされましたけれども、少なくとも、そういう支配体制の中では、強制・強要・命令・誘導がなければ、絶対に家族同士が殺し合うなんてことはできないわけです。そのことを私たちは確認していく必要があるんだろうなと思っているわけです。
 そういう状況をこれまでずっと言い続けてきたわけです。けれども、なかなかこれが沖縄戦の認識としての定着を、必ずしも全国的なものにしてきたとは言い難い。再度私たちはこれを学びながらやる必要があると思っています。

教科書の歪曲はどういう流れで起こってきたか 
 
 そもそもこの教科書の歪曲の問題が、どういう流れで起こってきたのかということを一応おさらいがてら話したいと思います。

 沖縄戦の歪曲は長い歴史を持っています。その中で、82年の教科書問題というのは、いまにつながる大きな問題でした。この時には、高校の江口圭一さんの教科書が初めて、日本軍による住民殺害を記述しようとしました。そうすると文部省(当時)から「証拠はない」とか、県史から引き出そうとすると「県史は一級資料ではない」とかいうことで結局、書けなかったんですね。ですから、書けなかったということが82年は大きな問題となりました。
 これは、ご記憶のことかと思いますけれども、アジア・太平洋地域に対する「侵略」を「侵出」と書き替えた教科書問題。いまの「近隣諸国条項」が出来た時とまったく同じです。その問題が起こった時でしたので、全国的に、国会でも、「あの戦争をどう書くのか」ということが議論になりました。その中で沖縄の記述についても問題になりました。
 結局、どういう解決になったかと言うと、当時の小川文部大臣が「沖縄県民の感情に配慮した検定をこれからします」と言って、文部大臣の答弁によってこれは収束したわけです。そういう意味では、「近隣諸国条項」のような文面にする必要はあるんだろうという話にもなるわけですが、そういう結果の中で、翌年83年の中学校教科書から、沖縄戦における「住民虐殺」という記述がされるようになりました。その結果、どうなったかと言うと、「住民虐殺を書くなら『集団自決』を書け」というのが文部省の検定方針でした。「『住民虐殺』よりも『集団自決』の方が犠牲者の数が多いのだから書くべきだ」と言ったのが、文部省の指導だったわけです。その時の検定、いわゆる教科書の調査官。これがいまでも調査官をやっている照沼という男です。これは伊藤隆という東大の歴史学者がいますが、彼の門下生です。ですからその頃から、こういう検定を専門にしているわけです。
 そういう「『集団自決』を書け」という指導をして、どういうことになったかと言うと、先ほど説明したとおり、いわゆる「集団自決」というできごとは、基本的に軍の誘導・命令・強制で起こったことですから、その本質は「住民虐殺」と同質、同根であるということが、歴史の教訓だと思います。
 この同質、同根であるように一生懸命、工夫をして書いてきたわけです。その結果が変えられる前の記述なわけです。「集団自決」を入れろという文部省の指示の中で、なるべく「住民虐殺」と同質、同根になるように書いた結果なんです。だから、当初の家永教科書においても、江口さんの教科書においても、「住民虐殺」さえ書ければよかったわけです。「教科書記述としては」です。「集団自決」ということをあえて書かなくても、「『住民虐殺』が書かれていれば、それは含まれているんだ」ということが、教科書記述の本質だったと私は思っています。
 それが冒頭申しました「軍隊は住民を守らない」という教訓を具体的に表現する実例だったわけです。しかし、彼らはそういうことで「集団自決」を入れ、それが20年近く教科書記述としては変わらなかった。しかし、今回の裁判等を理由に変えてきた、このような流れになっていくわけです。その先駆けになるというか、重要な動きになったのが藤岡信勝を代表とする『自由史観研究会』でした。彼らが2005年に沖縄プロジェクトというものを立ち上げ、現地調査をしてプロパガンダ集会を打ち、そこで梅沢、赤松などと合流して、夏に大江・岩波訴訟を立ち上げる、こういう流れを持っています。
ですから、この2006年の検定に至るまでに、そういう動きで着々と教科書から削る準備を靖国派の政治家と結託しながらやってきたことははっきりとしている。ただ、誰が最終的に動いたかは、まだ洩れ聞こえてきません。そういう歴史を持っているわけです。ですから、そういう結果の中で沖縄戦記述が変わってきたわけです。
 
若者を戦場に駆り立てる歴史観に作り直す意図は明白 
 
 その後、中学教科書でどのように削除されてきたのか。沖縄戦も含めた近現代記述というものは、大体97年の教科書がピークです。97年の教科書が近現代史の記述としては、一番書かれていた教科書ですけれども。96年に『つくる会』ができて、最初にターゲットにしたのが「従軍慰安婦」でした。彼らは、教科書採択運動を、『つくる会』教科書をやるのと同時に「自虐史観」的な分析をして、ランクを付けましたよね。「どれが一番自虐的か」と。これで一番槍玉にあげられたのは日本書籍でした。いまの中学校地区採択という現状の中で、日本書籍は部数を大幅に落とし倒産に追い込まれる。彼らは自分たちの主義主張、イデオロギーのために会社を潰すことまでやってのけたわけです。そして、次の2回目の教科書採択までには、「従軍慰安婦」、性奴隷に関する記述が載った教科書は中学校では1冊もなくなってしまう。そこまで、彼らは運動をすすめることができた。それでも日本書籍は意地になって、新社をつくって出しましたけれども、次はないということで、教科書会社を1社減らしてしまうという事態になっています。そこまで彼らはやってきたわけですね。そういう運動の延長に、この問題があるんだということを是非抑えていただきたいと思います。
 彼らは、「南京大虐殺」「従軍慰安婦強制連行」「沖縄戦集団自決」の3つが日本軍を貶める自虐史観3点セットだと言っているわけです。ですから、そのことからもわかるように日本軍の名誉を復活させ、ひいては軍隊を美化し、国民を守るもの、生命・財産を守るものと位置づけることで、再度若者を戦場に駆り立て、兵隊にすることが出来る、そういう歴史観をもう一度つくり直す。国のために貢献し、命を捨てることは尊いことだ、ということを歴史の総括として、少しでも近づけたい。そういう意図があることは明白だと思います。ですから、こういう運動をする際には、9条改悪まで視野に入れてこの教育の問題、歴史認識という言葉を嫌がる人もいますけれども、歴史を、教育を考えるということがどういうことなのかという、そういう視野を持って是非、全国的な問題として位置づけていただきたい。
 
文科省の調査官が「こうしましょう」――教育内容に介入している証拠 
 
 最後にこれからの運動をめぐることで、私自身が考えていることを少しだけ話して終わりたいと思います。現在、この問題は「歴史歪曲をただす」という運動以上に、「教科書検定制度をどのように見直すのか」という運動に広がりつつあります。
 教科書というものは、審議会というところが議論して決めています。審議会の中に、第2部会の中に「社会」があります。「社会」の部会の中で基本的には検定方針を決定します。全体の審議会では報告どおり承認するだけですから、実質の最終責任は「社会」の部会なわけです。この下に日本史小委員会があって、そこで実質的な議論をしているわけです。各小委員会が部会にあげて、部会で確認したものが全体で確認される。そういう仕組みになっている。その際に今回は、実は一番議論されなければならない日本史小委員会で沖縄戦の議論が一切なかったということが、当事者証言で出たことを『沖縄タイムス』が明らかにした。
 ですから、教科書会社があって、文科省があって、検定審議会があります。いまでも伊吹官房長官(前文科大臣)は「検定審議会は公正中立だ」という態度を崩しておりませんが、この調査官がいて、基本的な調査をするわけです。これが先ほど言った伊藤隆の弟子である照沼と村瀬という2人。2人とも伊藤グループです。彼らが出してきて、小委員会で審議をするわけです。今回明らかになったのは、日本史の小委員会の先生たちがこれを発議して議論したわけではなくて、調査官が「こうしましょう」と言って持ってきたことが明らかになった。
 これはどういうことかと言うと、結局文科省主導で検定意見が変えられる。これまで20年いじってこなかったものをあえて変えるわけですからね。このタイミングそのものを調査官が主導してやってきたんだ、とこれは文部官僚が教育内容に介入しているという決定的な証拠になるわけです。
 彼らは「行政職ではなく、専門職だ」といって逃げたりもしますが、すくなくとも文部官僚が主導になって原案をつくって、今回「検定意見を変えましょう」と言ってきたことがわかったわけです。これまでは、私たちの要請行動に対して、彼らは「公正中立に学問的見地からやっているんだ」とずっと言ってきたわけです。私たちは「そういう反論があるなら、是非出してください。そういう学説・研究があるなら出してください」と言ってきました。彼らは、それに対してきちっと応えることはできませんでした。それもそのはずですよね。ないんだもん。論争もない、学説もない中で、検定方針を変える。
 あえて、強いてあげるのは裁判での意見陳述しかない。裁判というのも、4月の文科委員会の中で不適切だと陳謝してしまいましたので、裁判を使うこともできない。そうすると「新しい関係者の証言が出ました」と言う――〝誰ですか?〟〝何ですか?〟〝裁判でしょ〟〝まだ事実認定もされていない〟〝司法の判断もされていない〟――一方的な意見陳述による証言を一方的に採用する。そういうことを官僚主導でやるということは、官邸ないし政治家の圧力がないと動かない。こういうことが判明をしてきた。
 
検定制度の問題を指摘し、それに対するとりくみを 
 
 ですから、検定制度そのものが、もっと透明性を高めながら客観的にされなければならない。それを同時に追求しながらもう一歩、「結局、検定というものは教育の自由、教育内容に国家が介入することに他ならない、そういう制度にしかなっていないじゃないか」ということに話をすすめていく大きなきっかけをつくってくれた。このように考えています。
 是非ですね教育、教科書の問題として、教科書制度そのものにどうメスを入れていくのか。これまで3次にわたる家永裁判、そして高嶋先生による教科書横浜訴訟の中で検定の違法性を長らく問い続けてきました。それが終わって何年も経つ中で、またこういう問題が出てくるということは、やはり検定制度そのものをどこかできちっと問題を指摘しながら、それに対するとりくみをやっていかなければ、まずいだろうと思っています。ですから、もちろんこの教科書の検定意見撤回運動ではあるんですけれども、私たちはその視野を持ってとりくんでいただきたい。これが運動方針の中で検定意見撤回の先におきたいことです。
 
沖縄戦や近現代史をどう教えるか 
 
 そして、もう一つ先におきたいことがあります。それは教育運動としての教材化、ないし足元の授業実践をより豊にするという活動を再度位置づけていただきたいと思います。
 沖縄の中には、こういう楽観論があります。「教科書記述が変わったって、特設授業をやっているからいいんだ」と、僕はそれは間違っていると思います。それはこの問題が教科書という全国的な記述の問題であるということをまったく欠落した発言であるということと、もう一つは特設授業でやったからといって、日本の歴史という長い大きなスパンの中で沖縄戦をきちんと位置づけて授業ができているか。沖縄の実相を、沖縄の実相として学ぶことは大事だけれども、それが日本の歴史、ひいてはアジアの歴史の中でどういう位置づけになっているのか、という体系だった学びができるのは、やはり歴史の学習だろう、日本史の学習、世界史の学習だろうと思っています。ですから、そういう観点で「本当に考えて言っているんだろうか」とあきれてしまうことがあります。
でも、やはりそこを僕らは実践的に証明していかなければならないんだろうと思います。そのためには、これまで以上に沖縄戦や近現代史をどう教えるのか、それを「自虐史観」と言わせないようにどう丁寧に積み上げて、子どもたちと学んでいけるのか、ということを考えないと教育実践そのものが後退すると思いますし、もっと教科書記述も後退すると思います。限られた紙面の中で、教科書は書かなければなりませんから、やはりみなさん自身の知恵もかりながら、「写真はあれでいいのか」「文面はいいのか」「分量はいいのか」など、いろんな観点からもう一度教科書の分析をしなおさなければいけないと思っています。
 
 ですから、これは批判めいた言い方をしますけれど、教職員組合が教科書分析ということを怠っている、そこの弱点を突かれているんではないか。教科書が出る度にきちんと教科書分析をして、「いまの教科書こうなっている」「もっとこう使うべきだ」という運動を継続的に系統的にやってきたか。そうした弱さというものはあるんだろうと思います。ですから、研究しながら「もっとこの写真で考えられるよ」とか、「こういう証言を載せればもっと子どもが眼を開いて読むよ」というようなことを、執筆者に働きかけて教科書を良いものにしていかなければならい。
 その努力というものを、私も含めて教育者がもっとしなければならないと思います。ですから、そういう運動というのは、地道な沖縄戦研究の成果、資料発掘の成果、証言の聞き取りの成果といった一つひとつからしか生まれませんから、そういう足元の研究活動を私自身ももう一度振り返りながら、つくっていきたいと思いますし、先生方にやはりそれをもう一度やるんだと、単純に「『つくる会』の教科書さえ採決されなければいい」という判断ではなく、相対的に教科書は東京書籍みたいに悪くなっているんですから。
 
 そういう中で、『つくる会』が分裂しましたよね。ひとつは藤岡の『つくる会』――まあ潰れるでしょう。もうひとつは『教科書改善の会』という八木一派がつくった会。これに『日本会議』が全部くっついています。フジテレビが出資をして郁朋社というところから出します。彼らは「『つくる会』教科書は右過ぎた」と言っているわけです。だからより中立的な教科書をつくろうと言っているわけです。そうすると極端に言うと、東京書籍か郁朋社かということになる。東京書籍により近い教科書になっていくと思います。全国で学ぶ子どもの半分以上の教科書があいまいな教科書になってしまう。そういう事態をつくってはいけないわけです。ですから、もちろん『つくる会』系の教科書を採択させない、このたたかいはもっとがんばらないといけない。しかし、先ほどから申しているように教育運動の前進の中で、教科書記述を1歩でも2歩でも前進させる。そのたたかいがもっとやられなければならない。
 そういうところまで見据えて――私たちの教科書改善運動というところまで――問題として提起されていると思います。是非、それをとりくんでいただきたいし、がんばりたいと思っています。
 
10月山場に 検定意見の撤回をもとめ沖縄から上京団 
 
 とにかく山場は、10月一杯に政治決着をきちっと図って、検定意見の撤回、正誤訂正を認めさせるというところです。沖縄からの中央行動は、10月15日と16日に予定されています。いままだ最終決定できていませんが、できるだけ全国のみなさんと連帯して集まる場を設定して、この運動を結節させていきたいと思っています。そういう意味では、平和フォーラムや日教組、市民グループの人たちとも、一緒に出来るような場を沖縄からきちんと提起できれば、党派性も超えてやれると思います。その一致点をみなさん、是非探りながらやっていただきたい。なかなか地方では難しいところもあるということは十分理解していますけれども、なんとか職場の中では乗り越えていただきたい。子どもというのは、党派性などというものは関係ありませんから、その子どもたちのためにがんばっていただきたいと思います。
 是非、また10月に結集して大きな声を国会であげたいと思います。そして11月までに決着ができればと思ってがんばっているところです。
 
大江・岩波沖縄戦裁判の支援を 
 
 それからもうひとつ裁判の方は、11月の9日に梅沢、赤松の本人尋問があります。大江健三郎も出ます。できれば大阪地裁に10時までに集まっていただきたい。いま、向こう側と傍聴券の取り合いをしています。前回の7月の証人尋問では、こちらが150~160人で、あちらが100人以下。彼らは赤松、梅沢まで並んで傍聴券を取ろうとしています。そういうように傍聴席そのものも、支援の中で追い詰めなければならない。そういうたたかいになっていますので、大阪のみなさんはじめ協力をいただき、傍聴券を1枚でも多く取るということでがんばって支援をしたい。こちらも連帯してがんばりたいと思いますのでよろしくお願いします。
 12月21日には結審して、来年3月には地裁判決が出る予定です。完膚なきまでに叩きのめしても、きっと高裁にあがります。ですからこのたたかいも2~3年続きます。
 それまでに改悪された学習指導要領が出て、再来年小中学校の教科書検定になります。そこまできちっとあきらめずに地道に活動しないと、また小中の教科書がねらわれますので、それを視野におきながらこの運動をやっていきたいと思っているところです。

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