『クレスコ』

現場から教育を問う教育誌

クレスコ

〈2024年12月号 11月20日発行〉

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【談話】『教育再生会議第1次報告について』

2007年 1月25日 全日本教職員組合 教文局長 山口 隆

 安倍首相の私的諮問機関である「教育再生会議」は、2007年1月24日、第1次報告(以下、報告)を発表しました。報告は、「7つの提言」と「4つの緊急対応」「今後の検討課題」からなっており、それぞれの課題にかかわる法案の国会提出の目途も示しています。
 報告は、改悪教育基本法の具体化、安倍教育再生プランの具体化そのものであり、以下に述べる重大な問題点をもつものです。

 第1は、教育現場の努力を一顧だにせず、政府・文部科学省がすすめてきたこれまでの教育政策に対する反省もなく、極端な独善の立場におちいっていることです。報告は、学校教育について「いわゆる『教育界』の『悪平等』『形式主義』『閉鎖性、隠蔽主義』『説明責任のなさ』『危機管理体制の欠如』」と、困難ななかで必死に教育活動をおこなっている現場教職員の努力をふみにじり、現場がすべて悪いといわんばかりに、あらん限りの悪罵といってよい言葉でおとしめるとともに、「家族、地域社会、企業、団体、官庁、メディアなどあらゆる層の人々が、自分たちも『教育の当事者』であるという自覚を忘れ、行動を起こさず、非教育的でさえあることが、現在の教育荒廃を招いた大きな原因の一つ」と述べています。
 この間の教育基本法にかかわる国会論議においても、「いじめゼロ報告」「必修教科未履修問題」などで「閉鎖性、隠蔽主義」「説明責任のなさ」が問われたのは、教育現場ではなく、政府・文部科学省ではありませんか。
 また、いじめ問題や子どもたちの学力の問題など、今日の教育をとりまく諸問題の根底には、積年の政府・文部科学省のすすめてきた「競争と管理」の教育政策があります。しかし、報告はそこには一切言及せず、教育問題の責任を教育再生会議と政府・文部科学省以外のすべてのものに求める立場をあからさまに示しています。「非教育的」というならば、教育基本法改悪にかかわるタウンミーティングでの「やらせ」「さくら」問題は、最も非教育的なものですが、これをすすめてきたのは、文部科学省と内閣府ではありませんか。さらに、文部科学大臣自身が4000万円をこえる巨額の事務所費の使途を明らかにしないというきわめて不明朗な会計処理で大きな社会問題ともなっています。報告は、このことにまったくふれないまま、「子供は大人の背を見ながら育ちます」「子供の健全な成育に背を向ける身勝手は許されません」などと述べていますが、教育再生会議にこんなことをいう資格はまったくありません。
 
 第2は、報告は、子どもたちを人間として大切にするのではなく、排除と脅しの論理にたっていることです。いじめ問題にかかわって、報告は、いじめている子に対する「出席停止制度を活用」と述べています。昨年11月に教育再生会議が出した「いじめ問題への緊急提言」などに際して私たちは、「いじめは人としてやってはならないことであり、いじめた子どもに対して、その誤りを厳しく指摘し、いじめをやめさせることが必要であることは、言うまでもありません。しかし、いじめている子=悪、と決め付けてすむほど単純な問題ではなく、いじめ、いじめられの関係があるきっかけで逆転することをふくめ、子どもたちの関係を解きほぐす入念な指導が求められる問題であることを、教育現場は痛いほどわかっています」、「いじめている子もまた苦しんでいます。その苦しさを、その子の内面をくぐって理解しつつ、克服にむけて行動することをうながしましょう」という立場を表明してきました。いじめ問題の克服は、出席停止制度を使っていじめている子を学校から排除すればすむという単純な問題ではありません。報告には、いじめられている子、いじめている子それぞれの苦しみを理解しようとする態度は、まったく見て取れず、文字どおり、排除の論理でつらぬかれており、教育の論理をもたないものといわなければなりません。
 そのうえ「子供に対する毅然たる指導」として「体罰」についても「昭和20年代の『体罰の範囲等について』など関連する通知を、18年度中に見直し」と述べるにいたっていますが、これは、教育再生会議の人権認識、人権感覚を根底から疑わざるを得ません。「体罰」はまぎれもなく暴力であり、教育の場においてゆるされるものでないことは明らかです。暴力を容認して子どもを脅しつけることが「毅然たる指導」ではありません。子どもたちに対する人間的なあたたかい働きかけをおこなうことこそが指導の基本であることは、教育現場ならばだれでも理解できることです。
 この排除と脅しの論理は、教職員に対しても同様であり、「教員免許更新制」はその最たるものです。社会的非行をおこなったり、客観的にみて問題のある教員を教育に携わらないようにすることは当然のことであり、それは、現行法をきちんと適用すれば可能です。また、教員免許についても、現行の教免法で客観的基準による免許の失効や取り消しも規定されており、これを適用すればすむことです。すべての教員を対象にして「教員免許更新制」をおこなう必然性はどこにもありません。「教員免許更新制」は、すべての教員をいつ失職させられるかわからないというきわめて不安定な身分におくことであり、教員は、常に強迫観念にさらされることになります。教員がこのような状態におかれて、一体よい教育ができるとでも言うのでしょうか。結局、時の政府の言いなりにならない教員を恣意的に学校現場から排除するものであり、改悪教育基本法の具体化そのものといわなければなりません。
 さらに、学校に対しては、「教育水準保障機関(仮称)」によって「厳格な外部評価・監査システムの導入を検討する」と述べていますが、これも同様に、脅しの論理にもとづいて、時の政府による学校と教育への支配を強めようとするものです。このやり方は、すでにイギリスで、教職員を萎縮させる施策として大失敗が明らかになっているものです。こうした、排除と脅しの論理は、およそ人間を人間として育てる教育とは無縁のものです。
 
 第3は、まともな教育論議をおこなった形跡がみられないということです。報告は、「『ゆとり教育』を見直し、学力を向上する」として、「授業時数の10%増加」と述べています。国際的な学力調査の結果によって「学力低下」が指摘されたこともふくめ、子どもの学力をめぐる問題は父母の重大な関心事となっています。子どもが学校教育をとおして基礎的な学力をきちんと身につけることは、いうまでもなく重要なことです。子どもの学力に問題があるのならば、そのことについての教育学的分析が必要です。「ゆとり教育」といいますが、現場にそうした実感はまったくありません。現行の学習指導要領によって、「ゆとり」どころか、いっそうつめこみが強化されているというのが現場の実感ではないでしょうか。「総合的な学習の時間」がおかれたことともあいまって、教科の授業時数は削減されたにもかかわらず、小学校で習得すべき漢字の数はそれまでと同様の1006文字とされていることにも明らかなように、教えなければならない中身は必要な削減はされておらず、逆に1時間あたりの学習密度は、かえって増えている、というのが実態です。子どもたちの学力を問題にするのならば、この学習指導要領体制を抜本的に見直さなければなりません。
 また、子どもの学力をめぐる問題の根底に、国連からも指摘される過度な競争教育があり、子どもたちは競争で追い立てられ、追いつめられ、学習の意欲を持てなくさせられているのです。こうした「競争と管理」の教育政策を抜本的に見直さず、きわめて即物的に、かつ単純に授業時間を10%増やすなどという報告をおこなうこと自体、教育再生会議の認識の根本を疑わざるを得ません。これを現行の授業時数に機械的に適用すれば、小学校1年生で週25時間となり、毎日5時間授業をおこなわなければならなくなります。果たしてこれが、1年生の発達段階にふさわしいのかどうか、検討されたのでしょうか。報告の機械的対応からは、そうした教育的検討がおこなわれた形跡を読み取ることはできません。
 さらに報告は「習熟度別指導の拡充」を述べていますが、学力「世界一」のフィンランドは、子どもをできる子、できない子にわける「習熟度別指導」はまったくおこなっておらず、義務教育段階における共通教育をとおして、子どもたちに学力を身につけさせるとりくみをすすめ、成果をあげています。このことについてもまったく検討された形跡はみられません。こうした無責任な報告で現場を混乱させることは、もういい加減にやめてもらいたい、これが現場の率直な声ではないでしょうか。
 
 第4に、報告の根底に人間不信、子ども不信があることです。すでに述べたように、いじめている子に対する対応、体罰容認、教員排除などの考え方の根本に、子どもはほうっておくと何をしでかすかわからない存在、教員も同様、という人間不信が横たわっています。この考え方は、父母や家庭に対しても同様です。報告は、「家庭の対応――家庭は教育の原点。保護者が率先し、子供にしっかりとしつけをする――」と述べ、「保護者がその責任を自覚する」「保護者は…子供としっかり向き合わなければなりません」と述べています。父母は、弱肉強食の「構造改革」路線による「貧困と格差拡大」が家庭を直撃し、さまざまな困難に直面していても、子どもの教育だけは、と必死にがんばっています。それでも、子育てにかける時間が十分とれない、子どもと向き合いたくてもその時間すらとれない、という状況におかれている父母も少なくありません。この大変さに心を寄せ、そうした状況を改善するために、長時間過密労働の解消、サービス残業の一掃など、親が子どもと向き合うための具体的支援が求められているのです。このことを抜きにして、家庭や父母に一元的に自覚を求めたり、しっかり子どもと向き合えと傲岸に説教を垂れたりすることは、親が悪いから子どもが悪い、という考え方が根底にあるからにほかなりません。
 人を人として育てるという本質をもつ教育は、もっとも人間的ないとなみです。子どもや人間に対する信頼なしにそのいとなみは成り立ちません。報告の根底に流れる人間不信、子ども不信は、およそ教育のいとなみとはあいいれないものです。
 
 最後に、教育再生会議の議論のあり方について述べます。教育再生会議は国民やマスコミに対してさえもまったく公開されず、密室でおこなわれています。プライバシーにかかわる問題を除き、一般に密室で何かをおこなうときは、公開できないやましさがあるときです。密室審議というやり方は、教育基本法改悪にむけて審議をおこなっていた与党協議会を想起させます。与党協議会は、結局、最後まで国民にも非公開で、政治的思惑のみを優先し、国民のだれも望んでいなかった教育基本法改悪の下準備をおこなったのではなかったでしょうか。
 教育は国民的事業であり、国民的討論が必要なことは論をまちません。密室での審議というやり方は、もっとも教育の論議にふさわしくないものです。審議の公開を強く求めます。
 冒頭に述べたように、報告は、改悪教育基本法の具体化そのものであり、私たちは断じて容認できません。安倍首相は、この報告にもとづく教育関連法案として、教員免許更新制導入のための教員免許法改悪法案をはじめ、地教行法、学校教育法改悪法案を本日からはじまる通常国会に提出し、成立をめざすことを明言しました。法案の姿は、まだ明らかではありませんが、これらは改悪教育基本法の具体化をねらうものとなることは疑いありません。私たちは、教育再生会議報告の具体化、改悪教育基本法具体化法案の成立を阻むために、父母・国民のみなさんとともに全力をあげる決意です。同時に、「参加と共同の学校づくり」を中軸に、教育を国民の手でつくりあげるために、国民的共同を大いに広げ、とりくみをすすめるものです。

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